中松です。今日のコンテンツは
「祖父が95歳で亡くなりました」になります。

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先週の木曜に祖父が亡くなりました。

実は亡くなる3日前にも私は会いに行っていたのですが
結果としてはその時が没前最後の別れとなってしまいました。

 

享年95歳。

日本人男性の平均寿命が約80歳ということを
考えるとこれは大往生といえるとおもいます。

参照データ:公益財団法人 生命保険文化センター
http://www.jili.or.jp/lifeplan/lifesecurity/oldage/2.html

晩年は叔母に引き取られて大阪で過ごしていたので
通夜、葬式ともに大阪府吹田市の千里会館にて行われました。

 

故人は95歳だったこともあり
家族葬で行われたのですが
親戚一同の大半が集まり最後のお別れをしました。

孫の私の立場から見ていて感じたのは
「祖父は幸せな最後を迎えられたのでは?」ということです。

近年は孤独死(立会者のいない死亡)を迎える人が
年々増加しております。
(とりわけ東京は孤独死の比率が高いそうです)

参照データ:厚労省「人口動態統計」、総務省「人口推計年報」

 

この世にいたのか、いなかったのかすらわからないまま
誰にも看取られることなく、一人寂しく亡くなってしまう。

そんな亡くなり方をする人もこの世にはいるわけです。

それを踏まえると、家族や近しい人たちに惜しまれながら
この世を去れるというのは
とんでもなく恵まれていることなのかもしれません。

その点において
祖父は間違いなく幸せだったと私は思います。

 

とにかく大食漢で、内臓が頑丈。

90を越えてからも
お肉などをモリモリ食べていた祖父でした。

4年ほど前に一緒に鉄板焼きを食べる機会があったのですが、
その時などは孫の私よりもお肉を食べていたぐらいでしたから。

ご飯を美味しそうに無邪気に食べる

晩年の祖父にはそうした
イメージが私の中で定着していました。

 

たしかに、人間生きている間が大事です。

生きている間に何ができるか?

私の死生観は「無」です。

死んだら終わりです。おしまい。

それ以上でもそれ以下でもありません。

 

しかし、それと同時に生き方だけでなく…

「死に方」

というのも実の祖父という近しい存在が亡くなったことで
いろいろ考える機会になりました。

 

悲しい気持ちはもちろんあるのですが
寂しさという感情は不思議とあまりありません。

なんだか今もどこかで生きており
ひょっこり私の前に現れるような気すらします。

天国で大好きだったお肉を食べながら
きっと私のことを見ているんじゃないかと思います。

 

見舞いの時も

通夜の時も

葬式の時も

私は泣くことはありませんでした。

 

しかし、こうして記事にしながら
感情をひとつひとつ整理していると
ようやく涙がこぼれてきました。

出来の悪い末孫ではありますが
祖父が「私の祖父」であったことに本当に感謝しています。

 

出棺前の最後のお別れの時に
うまく言葉が出てこなかったのですが

たぶん、私はその時に
「ありがとう」とただ一言、
それが伝えたかったのかもしれません。

今後も祖父は思い出という形で
私の中で生き続けてくれるはずです。

「じいちゃん、95年間お疲れさま。
天国でばあちゃんと仲良くゆっくり過ごしてね。
いままでありがとう。」